城東むかし町家(梶村邸)
出雲街道が東西に走り、その中に在るのがこの旧梶村邸。江戸時代の後期に建てられた母屋から昭和初期の蔵まで、各時代の生活様式に対応した造りが保存されています。
全体で梶村家の所有としては8つの建物があります。母屋と離れ、大きな座敷、洋風と和風の蔵、裏の客間(特別室)、茶室、そして洋館です。
1928年に更に7m×34mの土地区画を西側の隣家から購入し、梶村家の所有地を31.5m×34mという現在の大きさに広げました。
母屋は2階建てですが、2階は実際には物置として使用される低天井の屋根裏部屋です。
家の前には小店があり、事務所や店舗として利用されていました。
江戸時代(1603~1867)、この辺りは板を張られていましたが、それ以前には土間(土の床)として放置されていました。
家の東洋建築部分は、江戸後期に建てられ、洋館部分には、明治時代(1868~1912)に、畳の間が加えられ、そして内装は、昭和初期(1930)に修繕されました。
2階建ての座敷は大正時代に建てられ、現在の建物は極めて良好に保存されています。
洋風につくられた東の蔵と家も、また大正時代に建てられたものです。
後世の修繕は増築に限られただけではなく、建物正面や現存する建物の構造の変更をも含んでいました。
石や木の格子細工(組格子・格子構造)は通りに面した元の土壁に付け加えられたもので、更に木製の補強(支え)が屋根の下に配置され屋根を9cmから15cmにまで上げています。
長い時代を通して、母屋は様々な修繕を施され、家は、その元々の形に復元するのは難しくなっています。それ故、必要な修復だけが施されてきているのです。
梶村邸の建築は母屋の建築と共に江戸後期に始まり、洋風の蔵が建てられた昭和初期まで続きました。
様々な増築と修繕は各時代の生活様式の変化を反映し、それ故、梶村邸は貴重な歴史遺産なのです。
全体で梶村家の所有としては8つの建物があります。母屋と離れ、大きな座敷、洋風と和風の蔵、裏の客間(特別室)、茶室、そして洋館です。
1928年に更に7m×34mの土地区画を西側の隣家から購入し、梶村家の所有地を31.5m×34mという現在の大きさに広げました。
母屋は2階建てですが、2階は実際には物置として使用される低天井の屋根裏部屋です。
家の前には小店があり、事務所や店舗として利用されていました。
江戸時代(1603~1867)、この辺りは板を張られていましたが、それ以前には土間(土の床)として放置されていました。
家の東洋建築部分は、江戸後期に建てられ、洋館部分には、明治時代(1868~1912)に、畳の間が加えられ、そして内装は、昭和初期(1930)に修繕されました。
2階建ての座敷は大正時代に建てられ、現在の建物は極めて良好に保存されています。
洋風につくられた東の蔵と家も、また大正時代に建てられたものです。
後世の修繕は増築に限られただけではなく、建物正面や現存する建物の構造の変更をも含んでいました。
石や木の格子細工(組格子・格子構造)は通りに面した元の土壁に付け加えられたもので、更に木製の補強(支え)が屋根の下に配置され屋根を9cmから15cmにまで上げています。
長い時代を通して、母屋は様々な修繕を施され、家は、その元々の形に復元するのは難しくなっています。それ故、必要な修復だけが施されてきているのです。
梶村邸の建築は母屋の建築と共に江戸後期に始まり、洋風の蔵が建てられた昭和初期まで続きました。
様々な増築と修繕は各時代の生活様式の変化を反映し、それ故、梶村邸は貴重な歴史遺産なのです。
箕作阮甫(みつくりげんぽ)旧家
1799年(寛政11年)9月7日、箕作阮甫は箕作貞固(三代丈庵)の第三子として西新町に生まれ、1812年(文化9年)戸川町に転居するまでの13年間をこの旧宅で過ごしました。
阮甫は、父・兄の没後家督を継ぎ、藩の永田敬蔵・小島廣厚から儒学を学ぶ一方、京都に出て竹中文輔のもとで医術習得にも励みました。
修業を終えて京都から帰り、本町三丁目で開業し翌年結婚しました。
その後、藩主の供で江戸に行き、津山藩医宇田川玄真の門に入り蘭学の習得に努めました。
以後、学問研究のため三年間江戸詰の許可を得たのです。
いったん津山に帰りましたが、1831年(天保2年)以後は、家族とともに江戸に住みました。
その後、深い教養に加え、持ち前の語学力を発揮して、ペリー、プチャーチンの到来時に外交文書の翻訳に携わり、日本の外交交渉に重要な役割を果たしました。
また、著作に専念し、医学関係に限らず、語学・地理・歴史・兵学等多岐にわたって出版するなど、洋学の発展に寄与しています。
一度は隠居しましたが、幕末の状況はこれを許さず翌年には「蕃書調所教授職」に再度登用され、洋学をもって始めて幕府直参に取り立てられましたが、翌年江戸湯島天神中坂下で没しました。行年65歳でありました。
阮甫は、父・兄の没後家督を継ぎ、藩の永田敬蔵・小島廣厚から儒学を学ぶ一方、京都に出て竹中文輔のもとで医術習得にも励みました。
修業を終えて京都から帰り、本町三丁目で開業し翌年結婚しました。
その後、藩主の供で江戸に行き、津山藩医宇田川玄真の門に入り蘭学の習得に努めました。
以後、学問研究のため三年間江戸詰の許可を得たのです。
いったん津山に帰りましたが、1831年(天保2年)以後は、家族とともに江戸に住みました。
その後、深い教養に加え、持ち前の語学力を発揮して、ペリー、プチャーチンの到来時に外交文書の翻訳に携わり、日本の外交交渉に重要な役割を果たしました。
また、著作に専念し、医学関係に限らず、語学・地理・歴史・兵学等多岐にわたって出版するなど、洋学の発展に寄与しています。
一度は隠居しましたが、幕末の状況はこれを許さず翌年には「蕃書調所教授職」に再度登用され、洋学をもって始めて幕府直参に取り立てられましたが、翌年江戸湯島天神中坂下で没しました。行年65歳でありました。
イナバ化粧品店
所在地:〒708-0841 岡山県津山市川崎168
定休日:水・木曜
Tel.0868-26-1018
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